あれもこれも好きも嫌いもNext

はてなブログにお引越ししました

3年ぶり

はてなブログに移転させて一発目。

前回の記事から3年ほどの時間が経過しているが、理由は特にない。

思ったことがなくなったわけではなく、色々な要因でモヤモヤした気持ちが雲散霧消したというのが正しいか。

思うことは日々あるが、それを省エネで解消されるようになったと言える。

じゃあ解消されなくなったのかという話になるが、そういうわけでもない。

まぁ単に動かそうというだけである。

せっかく何年も書いてきたわけだし、答え合わせもしなきゃいけないものもあるし。

単に軽い考えである。

今回はこの程度にするが、今後は多少動かしていきたい。

確実に勝てる戦いを重ねるのが大事

追記あり2024年4月

初出2022年3月

 

戦争はするべきではない、戦争反対、NO WARなど色々な反戦のメッセージがある。

しかし、ダメなものはダメと戦争がまるで臭い物であるかのような反応が多いと思う。
なんで戦争をしてはいけないの?と子供に問いかけられたら、親はどのように返すのか。
ダメなものはダメ、これで納得してくれれば、社畜の素質がある子供だろう。
 
戦争というものにWIN-WINは存在しない。
どちらかは致命的に敗れるし、どちらかは世界のリーダーとして牛耳ることができる。
その典型例が第二次世界大戦であり、前者が日本やドイツ、後者が拒否権を持つ5か国である。
後者の中の1か国、ソ連は中立を宣言しながらも、最後は日本に追い討ちをかけた。
勝ち目が限りなくあるし、日本の逆襲は考えにくいと踏んだからこそ、一方的に約束を破ったわけだ。
戦争にスポーツマンシップは存在しない。
たとえどんな手を使おうとも、勝てば官軍、負ければ賊軍だ。
つまり、戦争は勝たなきゃいけない。
衝動的に戦いを挑めば得てして負けてしまうし、予期せぬダメージを負う。
戦いを挑む以上、入念に準備を行い、様々なケースを想定しなければならない。
時に耳の痛い話を聞かないといけないし、非力さを嘆きつつ戦力強化に挑まないといけない。
そこから目を背けば背くほど戦争では負けてしまう。
戦争は、確実に勝てるものでない限り、仕掛けてはいけないと自分は思っている。
じゃあ確実に勝てるなら戦争をしてもいいのかという話になるが、議題の1つとして話題に出すぐらいはしてもいいはずだ。
むしろ「ダメなものはダメ」を長年押し通してきたからこそ、一筋縄ではいかないカウンターがやってくる。
 
戦争に限ったことではないが、勝てる戦いしかしない人がこの世の中ではカリスマになる。
あなたが思うカリスマを頭に浮かべてほしいが、分の悪い戦いをしているイメージがあるだろうか。
おそらく若い時は分の悪い戦いをしていたかもしれないが、段々と勝てる戦いしかしなくなる。
カリスマは戦いになりそうになっても、ギリギリで引く、引かせる、相手に譲歩する、譲歩させるのいずれかに誘導する。
YouTuberのヒカルは、ギリギリでの対応が本当に上手だ。
芸人にYouTubeをバカにされたと激怒し、芸人界隈が盛り上がりを見せた時も見事だった。
ヒカルとしては予期せぬ広まりを見せたのだろうが、終止符の打ち方が上手である。
 
そんなヒカルを恨んでいるのが、今の話題の「東谷義和のガーシーch」だろう。
ヒカルの暴露ですべてを失ったと公言し、破れかぶれでYouTubeに殴り込みをかけた。
芸能界は騒然、視聴者は大盛り上がり、今後の展開が楽しみだ。
東谷義和にとって、少なくとも勝てる戦いではないだろう。
分の悪い戦いであり、身の危険を感じざるを得ない状況になるかもしれない。
ただ東谷義和もある種の無敵の人、失うものがない人間の抱きつき戦法は恐ろしい。
現在動画上では、多くの芸能人に対しての疑惑が浮上している。
本人からすればたまったものではないだろう。
ただ戦いを仕掛ける以上は、絶対に勝たなければならない。
衝動的に戦いに挑み、返り討ちに遭えば今までのキャリアが台無しになる。
 
確実に勝てるものでない限り戦いを仕掛けてはいけない、これは戦争だけの話ではない。
すべてに通じることであり、子供のうちから教育されるべきことである。
義理を重んじて、あえて分が悪くても戦いに挑むのは美徳だろう。
ただその美徳のせいで、周囲の人間が痛い目を見る。
義理や美徳を大切にするならば、まず周囲に対して気が狂うほどの配慮をするべきだろう。
それが嫌なら、平和主義を掲げて我関せずを通せばいい。
周りを見れば、そんな人が多いではないか。
そして、幸せをつかんでいる人はみな、平和主義を掲げて我関せずの人である。
戦いから幸せなんて生まれないのだから、それが正解だ。
 
追記
2022年3月はガーシーの勢いが強かった時である。
芸能界が根底から変わるぞという雰囲気をひしひしと感じた。
しかし、ガーシーは色んな人物に利用され、一時参議院議員となるが、あまりの例のない除名の憂き目に遭う。
そして、ガーシーは逮捕されてしまう。
皮肉なことに、芸能界はこの2年で大きく変わってしまった。
ガーシーの影響だったかはわからないが、老舗がコケていった。
今年に入り、ダウンタウン松本人志が絶対に負けられない戦いに挑んでいる。
確実に勝てる戦いをどれだけ重ねられるか。
1つでも落とせばイバラの道が待っているだけに、時間をかけてでもこの戦いに勝たなければならない。
完全勝利を是とするのか、部分的に有利な判断が出たらそれを勝利とするのか、本人次第ではあるが。

悪気がない・無頓着・自意識不足は罪が重い

追記あり2024年4月

初出2022年3月

 

日本人は良くも悪くも同調圧力に屈しやすく、個性を発揮しにくい。

人と同じであることに安心を覚え、人と違うこと、常識と違うことに嫌悪感を持つ。
とはいえ、すべて常識通りの行動をとれる人もそういない。
どこかで常識外のことをしてしまうものだから、あまり考えすぎない方がいいように思う。
 
さて、同調圧力がいい具合に働くケースとして、ここ最近のコロナ対策がある。
一番はマスクの問題、諸外国ではマスクの着用を義務付けないとできない中で、日本は誰に頼まれたわけでもなくマスクをつける。
自分自身もマスクをつけて外に出るが、一度も苦に思ったことはない。
自らが花粉症で、マスクをつけなければお話にならないほど苦しい分、自分の身を守る術のようなものだったからだろう。
花粉症でもなく、特に健康の意識も高くない人にとって、マスクはとても邪魔な存在なのはここ2年で嫌というほど痛感させられた。
 
鼻マスクをなんでしてしまうのだろうと以前から思っている。
息がしにくい、メガネが曇るなど色々あるのはわかっているが、だから鼻マスクをするという正当な理由になるのだろうか。
ワイヤーが入っていない不織布以外のマスクなら息はしやすいが、いちいち鼻が出てうっとうしい。
出たら元に戻すを繰り返す、この作業で表面についたウイルスが手につく。
コロナ前からマスクの正しいつけ方が散々テレビで言われてきても結局は多くの人の頭の中に入っていない。
 
鼻マスクの割合はそこまで高くない。「自分ぐらいしか鼻マスクの人がいない」という状況でも改善しようとすらしないのはどういうことか。
個人的な考えとしては、トナラーのような無頓着、自意識不足の人間が鼻マスクをすると思う。
一切理解できないが、ノーマスクを宣言する人は明らかに意識をしてノーマスクでいる。
この方がまだポリシーが伝わるし、怒りこそ激しく覚えるが、諦めがつく。
無頓着の人は悪気があってやっているわけではない。
単に、自身に注意を与えてくれる、恵まれた人間関係を持ち合わせていない人物なだけだ。
トナラーの人の話を聞く分には、無頓着で自意識が足りない人物が多いように感じる。
 
悪気がない、無頓着、自意識不足は個人的には重罪だと思っている。
悪気がなければ何を言っても、何をやってもいいのか。
無頓着ならすべてが許されるのだろうか。
窃盗や強盗は明らかに悪気があるが、交通事故は基本的に悪気はない。
悪気がある交通事故は殺人や殺人未遂の類である。
周囲に無頓着だったから交通事故を起こしてしまう。
悪気がなくて無頓着だったからセーフとはならない。
結果的に甚大な被害を与え、人を傷つけたのであれば、その対価を支払わないといけない、これが普通である。
ところが、日常生活となると、悪気のなさや無頓着は許されてしまう。
それどころか、反撃しようものなら最初にやられた側が野暮な人だと思われがちだ。
悪気のない行動で引き起こしたトラブルは単なるヤリ得、ヤラレ損なのだろうか。
 
個人的にやっているのは、何も指摘せずに距離を置くこと。
こいつといても得がない、ただただ損をするだけだと思うようにしている。
相手はそれに気づかないし、色々な人とトラブルを起こしながら生きるだろう。
その人物が致命的なトラブルを犯した時、心の底から爆笑すればそれでいいと思っている。
悪気がなくて無頓着な人間は言ってもムダであり、話も通じない。
ならば、その人物が手に負えないミスをしたら全力で爆笑した方がまだマシである。
この手の人間は人の善意を平気で踏みにじり、善意を善意とも思わない。
天然ボケの人間はこのタイプが多いが、生き残れるのは可愛げのある人物のみだ。
 
鼻マスクをする人は、可愛げだけは持っていてほしい。
ただこの文章を読んだところで、自分の事だとは思わないだろうが。
 
追記
 
今はマスクをつけないのが当たり前になっており、マスクをつける人が少数派となっている。
さすがに自分ですらもうマスクを外そうかとすら思うぐらいだ。
実はこの記事のきっかけとなった人物がいる。
普段パチスロを打ちに行く時にいつも見かける50代ぐらいの男性である。
この人物が当時一貫して鼻マスクを貫いていた。
常に鼻マスクだから、イライラというよりも不思議な気持ちが強かった。
コロナになりたがっているのだろうかとすら思った。
マスクを外してもいいというタイミングで速攻外していた。
この人がまぁ無頓着で自意識不足なのか、音量は常にマックスだった。
そして、不思議とメダルを出してる。
人生なんてのは得てしてそういうものなのだろうか。

たぬかなの一連の発言に対して思うこと

追記あり2024年4月

初出2022年2月

 

 170センチの身長がないと人権がない、そんな発言をしてしまった女性のプロゲーマーがネットで炎上した。

他にも「たぬかな語録」があるようで、倖田來未からしか聞いたことがない「羊水が腐る」なども出てくる。

ただ170センチの件以外はどうやらデマの可能性が高く、面白おかしくネタにされてしまった可能性があるが、現状これらの発言は公式に否定されていない。

デマならばすぐに否定しないといけない。なぜならば、海外にもこれらの語録が拡散され、とんでもないゲーマーが日本にいると世界中に知られてしまったからだ。

否定したところで簡単に消火されないのはネットの恐ろしいところだが、否定した事実を残すこと自体は長い目で見た時にプラスに働く。

その作業は所属先がするべきか、たぬかな本人もしくは代理人がするべきか。誰でもいいからその作業をしないと再始動に手こずるだろう。

 

私自身170センチに満たないので、たぬかな的な観点からすれば人権が与えられていない人間である。(※)

そもそもその手のことが言える女性は高学歴で高年収で高身長、当然イケメンの人間を求めているだろう。

正直な話、たぬかなの発言を聞いて、きっと計算も何もせずに発言してしまったんだろうなと冷めた感想しか思い浮かばなかった。

以前にも170センチに満たない男は受け入れられない的な発言をした元アイドルがいた。その元アイドルは元野球選手と結婚したが、身長は190センチ。

たぬかなもきっとそれくらいの高身長の男性と家庭を築くのだろう。それならば気持ちいい。正直な人だったんだなぁと最大限思えるように努力したい。

 

「人権」という言葉を、簡単にあるだのないだのと言えてしまうことが、今回の問題点だろう。

英語で人権はヒューマンライツだが、海外にたぬかなの件が報道された際、170センチの人間はヒューマンライツがないという表現で訳されていた。これを見れば、海外の人たちは驚くだろう。

しかし、日本の、特に若者における「人権がない」は、ネットスラング、特にゲームのボイスチャット内で使われやすい。

今回の件を解説している篠原修司氏の記事を引用する。

 「人権キャラ」とは、そのステージを攻略するために必要なキャラクターや装備のことを指します。

 ゲームをプレイしたことがない人にうまく説明が伝わるかどうか不安ですが、たとえば“火のステージをクリアするために絶対必要な水のキャラクター”のことを「人権キャラ」と呼びます。

 この水のキャラクター(人権キャラ)を持っていない場合、「人権ない」=「そのステージに挑戦する資格がない」と言うことが多いです。(参照元人気女性プロゲーマー炎上の不適切発言「人権ない」、じつはゲーム用語(スラング)

 実際、この手の言葉は人権キャラに限らない、脳死プレイ、レイプ試合などもあるらしい。

ゲームに対して嫌悪感を持つ人がこれを知れば、たぬかなが170センチ以下の人間に抱いた気持ちより強い嫌悪感を抱くことだろう。

しかし、この手の言葉は実際に日常で普通に使われ、違和感もなく用いられていることが多い。

A級戦犯という言葉も様々な場面で使われているが、現代において、俺を戦争犯罪人みたいに言うな!と激怒する人はいないかもしれない。

もしかすると人権キャラも脳死プレイ、レイプ試合もいずれは当たり前のように使われるかもしれないし、違和感を持つ人が減る可能性もある。

言葉というものは時代の変遷で淘汰される。その淘汰の間に最初に使うものが処罰を受け、次に使うものも同じような処分を経験し、メンタル最強の人物が乗り越えさせていく。

ネットスラングのようなゲーマー用語は、eスポーツの発展とともに使われ、淘汰され、何かしらは残り、一般的な言葉になるはずだ。

 

たぬかながどのように復活するかはわからない。YouTuberとして炎上系を演じるかもしれない。峯岸みなみのように丸坊主にしていきなり出てきて、ゲーム配信を独自でするかもしれない。

あえて不幸中の幸いと書くが、今回の件で間違いなく知名度は上がった。口の悪さ、ゲームのうまさ、これがあれば独自でやれても不思議ではない。

たとえ不本意でも、全く謝る気持ちがなくても、謝ることを演じてひたすらに頭を下げておけば、「もういいじゃないか!」と擁護する勢力が必ず増える。

ゲーマーに品行方正を求めるのはどうかとは思う。それは言っておきたい。ただ個人的には、今後どれだけ改心をしていたとしても、同情は全くしないだろう。

 

※:2022年時点で170センチに満たないと思っていたが、2023年に身長を測った際、170センチを超えていた。病院で測ったから間違いないとは思うが、自分でもあまり信じていない。

 

追記

 

当時指摘した内容に近いかもしれないが、たぬかなは味をしめて、色々とモノを言うようになった。

さも自分が強者のような立ち位置で、弱者を嘲け笑うようなポジションに陣取っている。

このポジションは相当バランスよく振舞わないと、危害を加えられる可能性すらある。

必要以上に攻撃を受けやすく、大丈夫だろうかとは思う。

よほど身辺をきれいにしていないと毒舌ポジションは成立しない。

5年後あたりに、たぬかなが同じようなことをして活躍してたら、個人的に尊敬する。

あと、何もないことを祈る。

小室圭さんが弁護士試験に不合格だった際のマスコミの扱いに思うこと

後半追記あり2024年4月

初出2021年10月

 

小室圭さんがニューヨーク州の弁護士試験で不合格だったというニュースが選挙中にトップで扱われていて、世間の関心が高いんだなぁと思わされた。

 

はっきり言えば、そんなもんはどうでもいい。しかし、世間には興味を持つ人が多い以上、取り上げないことには何を言われるかわからない。

 

ここ数年、SNSを見てると、なぜこの話題を取り上げない、あのニュースを扱わないと様々な思想信条を持つ人たちから色々な声が聞かれるようになった。

 

元々SNSはすべての声を可視化させる。ここ数年で増えたと書いたが、実際は何十年も多くの人が言い続けていたわけで、それが文字起こしされたに過ぎない。

 

じゃあなんでマスコミは取り上げないかといえば、視聴率にならないからである。小室圭さんの話題が取り上げられるのは視聴率になるからである。

 

これにケチをつけるのは、なんで自民党が政権を握り続けるの?と言うようなものだ。それが民意なのだから。いつぞやのラジオ日本みたいにポップスを排除して演歌ばかり流すとしたら、それはトップの独断と偏見によるものだ。

 

トップの独断と偏見は少なくともキー局ではあまり見られない。30年前のTBSが大改革を行ったときはトップの決断が大きかったようだが、得てしてそうした決断は失敗し、のちに大きな痛手を負うことになる。

 

視聴率は悪く言われがちだが、結局私たちはテレビに飼い慣らされている。ザッピング対策のために演出過多になり、不快に思う人は多い。しかし、現にザッピングをする人が減らないのだからザッピング対策が正義になる。

 

先日も書いたが、大阪だと維新の会にべったりと寄り添った報道が目立つ。大阪以外の人からすればびっくりするだろうが、これもまたテレビの力であり、10年以上かけて作られた文化のようなものだ。

 

大阪のテレビ局はロクに言っていることを検証しないし、すべてを垂れ流す。無抵抗で隷属化しているような状態である。下手に検証をすれば会見でつるし上げられ、ライバル局の記者たちに蔑まれる。

 

海外だとどこかのマスコミがつるし上げられようものなら徹底的にメディアスクラムを行うが、それが見られるのは弱小事務所ないしはフリーランスで頑張る芸能人のスキャンダル会見ぐらい。

 

しかもメディアスクラムに対して世間一般は弱い者いじめみたいな印象を抱いているかもしれない。なにせそれが見られるのは先ほどのケースなので、得てして弱い者いじめの構図になる。

 

もしも日本のマスコミで頻繁に本来のメディアスクラムが行われていれば、少なくとも麻生副総理が記者会見で毎度毎度記者を小馬鹿にするようなことはなく、もう少し怒声飛び交う会見になるはずである。

 

日本の記者がだらしないというよりかは、受験戦争を勝ち上がり、メディアでの就職活動を勝利した以上、だらしなくなるのが普通ではないだろうか。

 

大学1年生が1日10時間以上の受験勉強の末、ようやく難関大学に入ったから勉強もせずサークルやバイト漬けになるようなものだ。

 

海外の大学では、大学に入ってからも勉強する。海外のマスコミも同じで、1日1日が勝負であり、下手なことをしていればすぐにクビを切られる。ゆえに切磋琢磨を繰り返して自分の意見をしっかりと持ち、誰であろうとそれをぶつける。

 

年収1000万円レベルが約束されたような状況で、先輩からの圧力、ハラスメントに平伏し続けていればオールOK、出世街道まっしぐらであればだれだってそうするだろう。

 

そんな組織は嫌だ!と大手マスコミを抜け出すまではいい。フリーランスになった瞬間、今までの実績は通用しなくなり、しょうもないプライドなどに変質する。日本だとそんなもんだ。

 

小室圭さんの話題に戻る。まぁそんな人たちが作るニュースなのだから、視聴率でしか判断できなくなるのは自然であり、抵抗するのもムダである。

 

もし小室圭さんの合格や不合格がどうでもいいと思うのであれば、自分でムーブメントを起こすしかない。でも、結局そこまでの怒りを持つ人は結構な少数派なのが実情だ。

 

日本のマスコミは不勉強なのは確かで、プライドだけが世界レベルになっている。しかし、それを嘆いたところで意味がない。良心的な若者が1人乗り込んでもどうにもならない。

 

マスコミなんぞ所詮そんなものだ。小室圭さんの合格不合格の話題は来年もあるだろう。それに苦言を呈したところで何も変わらない。苦言で変わるなら天文学的な回数、変わるチャンスが今までにあったのだから。

 

追記2024年4月

 

小室圭さんは2022年無事に弁護士となった。

この時もマスコミは大騒ぎした記憶があるが、皮肉なことに記録的円安の影響か、パパラッチができなくなり、小室圭さんや奥さんの動向は今のところマスコミは追えていない。

歴史的円安と物価高で日本のマスコミが海外に行き続けられない、まぁそれが今の状況なのだろう。

維新の会にも触れていたが、こちらは万博が近づいてきたこともあり、在阪メディアもさすがに重い腰を上げようとしている。

それでもベッタリな感じはするが、以前ほどベッタリな印象は受けない。

ベッタリのイメージが強すぎて毒されているのかもしれないが。

マスコミの状況、視聴率ありきの報道は2年半が経過しても変わらない。

爆笑問題太田光が選挙特番で大スベリしたことへの感想

追記あり2024年4月

初出2021年11月

 

「政治家は理想を語れよ」と自身の番組で発言していたのが爆笑問題太田光である。太田総理で政治に興味を持つようになったと言われているが、本当のところはどうなのだろうか。

 

TBSの選挙特番で登場し、自民党の二階元幹事長や甘利幹事長などに様々な発言を繰り返し、賛否両論を巻き起こしているようだが、早い話がスベってたようである。

 

「痛快だね!」とか「スカッとした!」などの意見もあるんだろうが、だとしたら、マスコミもそのように書く。決してそうは思えなかったから、無礼だ失礼だということになるのだろう。

 

しかし、太田光の妻であり、事務所社長の太田光代Twitterで擁護している。芸人なんだから多少の手荒なことは勘弁してよとでも言いたげに見える。

 

芸人、コメディアンは社会風刺を行っていくべきで、日本はその文化が薄れつつあるという話もあるが、既存の風潮に対する反抗という点では今も昔も変わっていないように感じる。

 

反抗の対象が政治には向かっていないだけで、芸人やコメディアンは何かに反抗し、それで笑いをとっている。それは政治に興味がないわけではなく、そこに需要がないことを感じているのだろう。

 

「芸人やコメディアンは社会風刺を行い、政治家と対峙するべきだ!」という考えは、「マスコミは権力の監視をする上で必要な存在だ!」、「野党は与党の仕事ぶりを正す存在だからどんどん批判をしていくべきだ!」に近いものがある。

 

ここ10年の傾向を見る限り、芸人は社会風刺を積極的に行うべきだ!とか、野党は与党の暴走を止めるべきだ!みたいな意見は一定の年齢以上の人からしか聞かない。

 

若い人からすれば、なぜ芸人が社会風刺を積極的に行わないといけないのか理解できないだろうし、与党より野党の方が暴走してない?と思っているように感じる。

 

だから、太田光の一連の言動に対し、芸人は社会風刺を積極的に行うべきであることを知る層は一様に擁護するが、芸人が社会風刺しなくたってよくない?と思う層は理解に苦しんでいる。

 

芸人は都合のいいポジションで、政治的な発言で失敗すれば芸人という職業を逃げ道にする。言葉と空気で勝負するのが芸人の仕事なんだから、言葉と空気で失敗したならプロとして手痛いミスであろう。

 

太田光という芸人は手痛いミスをちょくちょくやらかすが、いつも隣に相方の田中裕二がいない時だ。選挙特番に田中裕二がいれば、失礼だろ!と頭をたたきにいくだろう。

 

Aマッソもそうだったが、芸人は発言などの失敗が許されがちである。Aマッソが大坂なおみをネタにした時の言動を政治家が行ったら、おそらく議員辞職レベルだろう。そして、次の選挙でもそう簡単に復帰はできない。ところが、芸人は時間が忘れさせ、ノーダメージのごとく帰ってくる。

 

芸人はある種特権階級のように感じる。世間の人々はまだ芸人を特権階級のように扱っていないが、同じような事例が重なれば、いずれ芸人は特権階級の仕事であると感じるようになる。

 

昔のテレビを見る限り、政治家に対して非礼な態度を芸人がとっても許されていたし、芸人は社会風刺を行うべきと思っている人が多かったからそれでよかった。もはや現代だと、その考えは少数派だろう。

 

○○というものは○○であるべきだ!という考えを持つことは構わない。しかし、なぜ○○でなければならないの?という問いに説得力のある回答ができないとどんどん廃れていくだろう。

 

マスコミは権力の監視をするべきだ、野党は与党の暴走を止めるべきだ、そして、芸人は社会風刺を行うべきだという考えに対し、なぜ?と疑問を持たれた時、説得力のある回答ができるかどうか。そんなものは常識だ!と答えてきた人が多かったはずである。

 

この積み重ねが日本維新の会を生み出し、全国に根付こうとしているのではないだろうか。大阪のマスコミは大阪府政や市政の監視をしているだろうか、芸人は大阪府政や市政について社会風刺を行っているだろうか。

 

橋下徹大阪府知事になってから10数年、この間、マスコミは橋下徹らの攻撃に晒され続け、無抵抗になり、恭順化した。そして、芸人たちは東京への反発と地域政党の熱烈なサポートも相まって応援し、仕事がどんどん増えていく。

 

思えば、橋下徹はタイタンの所属タレントであり、爆笑問題太田光代との関係が深い。そういえばこの前の選挙特番で維新の幹部に何か失礼な発言をしていたのだろうか。

 

追記

 

太田光は政治のことになると熱くなる」と鬼越トマホークにいじられると、本人は急にギアが上がって気色ばむ。

芸人が特権階級的ポジションになっているとはまだ思わないが、時間の問題のように感じる。

しかし、Aマッソを最近よく見かける。

大坂なおみに対する失言のことなんか、だーれも覚えていない。

とはいえ、同じ失敗はいずれ起きる。

今は顔つきがかなり柔和で幸せいっぱいという感じなので、あるとすれば、幸せが崩れた時だろう。

加納の顔つきは相当柔和で、あの顔つきだったらもっと売れてもいいくらい。

村上もとい「むらきゃみ」はまぁあんな感じだろう。

維新に対する芸人の対応に関しては、さすがに世間も少しずつ不思議に思い始めたように思う。

橋下徹松井一郎は偉大だったんだなぁと色々と思う。

2021年総選挙の結果に対して感じたこと

追記あり2024年4月

初出2021年11月

 

4年前のこの時期は、横浜がCSに出て、日本シリーズまで行ってしまうという奇跡の真っただ中にいた。

 

阪神園芸のすごさ、フェアに整備をしてくれたことへの感謝と敬意を今日まで持てているのはクライマックスシリーズのファーストステージがきっかけである。

 

4年前の同時期、衆議院選挙が行われ、自分は投票日前日に期日前投票を行った。その理由は台風。ちょうどその時期に台風がやってきており、前日もそれなりに降っていたような記憶がある。

 

嵐のような展開は告示日のだいぶ前に起きていた。誰にとっての希望だったのかと今でも思う。そんな希望は今年静かに終わりを告げた。

 

日本維新の会が今回の選挙で躍進したが、思えば前回は希望の党と連携したからこそ議席をだいぶ減らしただけでその前と比較したらそこまで躍進という感じではない。

 

立憲民主党共産党も確かに議席は伸ばしたが、ホップステップジャンプのホップになったかどうかぐらい。「4年後の政権選択選挙の挑戦権を得たんだ!」と主張したら、無党派の人たちは何を思うのだろうか。

 

自民党は今までが勝ち過ぎただけで、これくらいの議席がちょうどいいと考えている国民は多いかもしれない。一歩間違えば危ないぞという議席数が本来のバランス力を発揮する。

 

冷めてる見方かもしれないが、衆院選の時だけ大層なことを約束し、簡単にひっくり返すような政治は勘弁願いたい。

 

総裁選で言ってたことがわずかな期間で引っくり返るような状況を見れば、おいおいいい加減にしろよと普通は思うだろう。

 

自分の事だけ考え、株やFXで儲ければいい、だから都合のいい政権であってほしいと願う人もいるが、自らの立ち回りでどうにかできる経済状況が今後も続くと思っているのだろうか。

 

今回の選挙である程度バランスがとれた状況になったと思う。これならば横柄な態度はとれない。まして来年に参院選が控えている。今日からもう次の選挙は始まっている。今日からの振る舞いを見て次の選挙で投票先を決めればいい。

 

この期間で簡単に変節するようなところに入れる必要はないだろう。1年足らずで変節する人々は、数年先も変節を繰り返すはずだ。

 

と、実は結果が出る前に書いていて、よきところで予約投稿をしようと思っていたが、結果はご存じの通り、議席的にほぼ変わらず。乱暴に「ほぼ変わらず」と書いたが、ネットがモノを言う時代になったことを証明したのは確か。

 

ネットにすべてを委ねた朝日新聞の調査がほぼ正しかった。そんなバカな!と思っていたが、見事に当てていた。朝日新聞は金がないからネットのアンケートに丸投げしたんだろうと言われていたが、ちゃんと当ててみせた。

 

大物が落ちまくり、若い人が選ばれていくのも面白い。自民党の事実上の勝利のはずなのに、なかなか傷を負っている。野党とすれば、共闘なんかやっても意味がないと思われがちだが、やってなかったらもっと悲惨だったかもしれない。だからこそ厄介である。

 

思うところはたくさんあるが、どんな結果であれ過度に喜ぶことも、悲観なんかもするべきではない。選挙が1つのゴールでありスタートでもある。期待と裏切りは表裏一体だ。過度な期待は裏切りを感じやすくなる。

 

とにかくドライにとにかくシビアに、身内に対して不信感に近いぐらい疑いながら根っこの部分は信じる。その精神が大切であることを改めて思い知らされた。

 

ボートレースは3周2マークまでわからない。1周1マークの展開を当てて終わりではないのだ。

 

追記

 

そういえば2021年の総選挙の日にジョーカーに扮した男が事件を起こした。

その前は台風が迫っていて、いずれも「選挙報道なんぞしてる場合か!」という声がチラホラと聞かれた。

選挙そのものを毛嫌いする人が増えているのかなとすら思う。

そんな奴隷的な考えでどうすんの?とは思うが、所詮社畜でいれば幸せをつかめる世の中だから、別にそれでいいわけだ。

こうした意識は今もそんなには変わっていないように感じる。

そのことへの失望は一切ないが、いつかそのツケをみんなで払わされそうな気がしないでもない。