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多様性を訴える割に異なる意見に抵抗しがち

追記あり2024年4月

初出2021年10月

 

最近ネットを見てると、多様性に関する書き込みが多い。多様性という言葉で表現しているわけではなく、少数派の意見を知ってほしい的なものが目立つ。

 

少し前だとマスクの件。マスクができないのには理由があるとか、マウスシールドの方がありがたいとか、パッと見て理解しがたい事象も、説明されれば理解できるケースも多くなっている。

 

ただ、最近懸念しているのは、多様性を訴える人ほど多様性がない、多様性への理解が乏しいのではないかというものだ。

 

フェミニストは女性に関する権利を訴え続けており、これ自体は理解できる。ただその他の多様性が問われる案件について、どうも投げやりというか、知らねぇよバーカと言わんばかりの排他性を見せている印象がある。

 

だからこそ、フェミニストに対して否定的な意見が目立ち、余計に問題をややこしくしていると感じる。多様性は、異なる意見や思想に対して理解する気持ちをもって初めて成立する。

 

自分の色を認めてくれ!と叫ぶのは全く問題はない。しかし、あんな色を使うのはおかしい!排除しろ!その代わり自分の色を認めろ!と言われ、はいそうですかとはならない。

 

少数意見を持つのは一向にかまわないし、多くの人が自分の意見を気兼ねなくぶつけられる時代であることが一番健全である。

 

しかし、自分の意見を気兼ねなくぶつけるのであれば、他人の意見を気兼ねなくぶつけられても受け止めなければならないと思っている。

 

どれだけの人が他人の意見を受け止められるだろうか。ビジネスの場ならいざ知らず、プライベートでこれができる人は相当限られるだろう。

 

フェミニストを見てると、自分の意見を力強くぶつける割に、その逆をされるとヒステリーを起こす勢いで反論するイメージしかない。そうしないと男社会に対峙できない環境であることは認めた上でそのように感じる。

 

ヒステリーを起こす勢いで男社会に対峙したくなる気持ちは本当に分かるし、その行為自体は必然だと思う。そして、そのおかげで改善が少しずつでも行われているのも確か。

 

でも、どこかで揺り戻しが来るだろうし、いい加減、権利ばかり主張するのはどうかと思われる部分も出てくる。それを防ぐには、異なる意見をぶつけられても理解する気持ちを持つことだと感じる。

 

フェミニストにこの作法を覚えろと言えば、きっと反発されるし、お前はわかっていないと言われるだろう。説教してくるな!と抵抗されれば、この話はそこで終わりになる。

 

じゃあフェミニストにとって何がゴールであり、どこまでいけばノーサイドになるのか。それがわかって、1つ1つ互いに理解し合う気持ちを持っていけば、次にはつながりやすい。

 

多様性を主張したいのならまず自分が異なる意見に耳を傾け、理解することが必要である。別に肯定はしなくていい。理解しようとする姿勢さえあればいい。それさえないから、多くの人に抵抗され、激しい戦いの末に闇落ちしていくのだろう。理解はするが同情はできない。

 

追記

 

多様性って言葉にすら嫌悪感を覚える人が増えているのではないかと感じる。

フェミニストに対する嫌悪感はこの当時からもそこそこ感じたが、より感じるようになってきた。

揺り戻しが来るのはそう遠い未来ではなさそうだ。

だとするならば、女性にとって氷河期のような時代が来ても何ら不思議ではない。

弱者男性が女性にターゲットを絞っている。

このことを踏まえた上で、色んな主張をしていくと距離感を間違えずに妥当な判断ができると感じる。

「知らんけど」で投票するのが普通な時代に

衆院選議席予測がメディアによってバラバラ。まるで週刊誌のようなセンセーショナルな予測を新聞社が行う時代になったようだ。


政治に関心はない、だけど選挙に行かなきゃいけないと思い、投票所に足を運ぶ人は何を参考にするのか。それはおそらく認知とポスターだろう。


毎朝駅前にいるとか、交差点のところに立っているとか、こんな田舎にも来てくれるとか、色々なことで認知をし、最後誰に投票するかという時に入れる。


あとはポスターを見て、こんな顔をしているのかと見て、顔で選んでいる人もおそらくいるだろう。じゃあ政策の違いでどの党に入れるかという判断をどれだけの人がしているのか、そこは疑問である。


名前を連呼する選挙は異様という指摘はその通りなのだが、残念ながら名前を連呼する選挙が一番効果があるように感じる。それだけ政策の違いを吟味する余裕が無党派層と呼ばれる人たちにはない。


改革をやってくれそうという雰囲気で決めている人も多いはず。もし自分の投票行動で自分の生活が苦しくなっても、「知らんけど」と文末につければいいのだから。


「知らんけど」という言葉は個人的に嫌いであり、言葉の使い方を工夫したり、言葉遊びを楽しんだりする気持ちを放棄したような印象を覚える。


「この党に入れよう、知らんけど」、「あの党は改革に前向きだから入れてみるか、知らんけど」など、どこか投げやりで4年間この党とこの人に自分の民意を委ねるという気持ちがない。


こういう人たちの集まりが無党派層だとしたら、そりゃ世論調査も各社バラバラになるだろう。かたやネットに委ね、かたや固定電話に託すもなかなか通じない。風を正確につかむのは大変である。


4割の人が態度を決めていない、ゆえに大惨敗から圧勝までの数字を予測として出さざるを得なくなる。知らんけどの精神で入れる人が多いのだから、当然といえば当然である。


だからこそ木曜日と金曜日、土曜日の3日間が重要と言われる。無党派層はこの3日で決めると言われているからだ。


とはいえ、コツコツ受験勉強をしてきた人間が難関大学に受かるわけで、コツコツと政治家としての活動をしていればそれなりのポジションで戦える。


そう思うと、ある党はまだ基礎固めの段階なんだろうと思うし、そこに関しては無党派層も見抜いているのではないか。2025年に予定される総選挙が楽しみと言うと、鬼が笑うだろう。


2025年、なんだかんだ今と変わらず、真綿で首を絞められる日々をごまかしながら生きている人が多いように思う。それでいいはずがない。でも、日々をごまかすので精一杯な人たちに、これ以上の高望みは無理だろう。

話せばわかる人は存在しないと思って過ごした方が平和

自分の意見が絶対に正しいと主張し、テコでも動かないような人がいる。違う意見を徹底的に嫌い、違う意見を持つ人を敵対視する。


こういう人は案外多い。そして、話せばわかるなんてことがいかにバカげているか、よくわかる。話せば話すほど険悪になり、最終的に殴り合いになる。話せばわかる人は存在しない。


この記事を書く際に色々と読んでいたが、なるほどと思う事だらけだった。お互いに「話せばわかる」と思っていなければ理解し合えないんだなと改めて感じた。

「話せばわかる」といえば犬養毅だが、結局青年将校たちに問答無用で命を奪われてしまう。「話せばわかる」というステージに青年将校たちがいるはずもない。もしそのステージにいるならクーデターは起こさない。

「話せばわかる」という考えは傲慢だと思う。なので、自分の趣味を他人に押し付けるようなことは基本的にしないし、異なる趣味の人と会話をする際には最大限聞き役に徹する。

「話せばわかる」なんてことはないと思ってはいるが、「聞けば自分が変わるかもしれない」と思うことは多い。相手をわからせることは無理でも、相手の言い分を聞いて理解することはできる。

理解したからといって肯定するわけではない。理解はした、でも、肯定はできない。なぜか。思想信条や人生で築き上げてきた価値観があるからだ。

この積み重ねが多様性につながり、異なる文化を持つ人に対してリスペクトを持てるようになる。

同性愛に関して理解を示す人間が全員同性愛者である必要は一切ないし、同性愛に一切興味がなくてもいい。そりゃそういう人もいるだろうねと思えれば多様性は成り立つ。

ところが、同性愛は気持ち悪い、あり得ない、存在すら認めたくないと考える人もいる。この人に「話せばわかる」と同性愛について語ってもゴミを見るような目をされ、いずれどちらか倒れるまで殴り合うことになる。

これは仕方がないことだ。思想信条や価値観がそうさせるし、どんな歪んだ価値観があってもそれを否定する権利は誰にもない。自分の事を分かってくれないからといって古い価値観を持つ人間を否定してしまってはダメだ。

競馬はスポーツであり、文化でもあると力説したって、単なるギャンブルでしょ?と言われてしまう。これも仕方ない。どれだけ海外の事例を紹介しても、単なるギャンブルで処理したい人からすれば無意味であり、無様にしか見えない。

かといって、競馬は単なるギャンブルと考える人間が、例えばディズニー好きだった場合、「ディズニーランドなんか非正規雇用者によって支えられた夢も何もない国じゃねぇか」と浴びせたら、おそらく激怒する。

話せばわかるなんてことは絶対にない。しかし、相手の言い分を聞き理解することはできる。お互いにその姿勢を持つことができれば、骨肉の争いのような話にもならないし、お互いの不幸に腹の底から爆笑することもない。

そして、相手に譲歩の気持ちがみじんもないのであれば、シャットアウトすればいい。それが一番平和である。話せばわかるという考えは傲慢。興味を持ってくれたら少しずつ話をしていけばいい。

ペットを飼うのは本当に癒しだけか

なぜ動物は愛され、多くの人がペットを飼うか。癒しを求めたい人にとってペットの存在はあまりにも大きい。では、なぜペットが癒しになるのか。


見ているだけで可愛いというのもあるだろうが、飼い主に従順で慕ってくれる部分もあるからだろう。これが全く従順ではなく、誰に対しても狂暴なら嫌われるだろう。


狂暴な犬に接する機会がなぜか多く、人が近づくととにかく襲い掛かろうとする犬を何頭か知っているが、深い愛情を注がれているとは到底思えなかった。


従順で可愛いから癒しになるが、非従順ならきっとすぐに飽きるだろう。こちらから愛されようなんて、人間側が思うことはまずない。あったとすれば、その人は単に動物が好きなのだろう。


結局人間は、人付き合いでも従順で可愛い人を求める。自分が上に立てて、何を言っても従ってくれそうな人を求める。だから上から目線やマウントをとる行為にものすごく敏感になる。


不思議に思うのは、自分が上に立ったとして得られるものはまずない。失うものは己のプライドだが、マウントをとられただけで失われる程度のプライドしかあんたにはないのかと言いたい。


たとえ相手にバカにされたとしても、全てにおいて負けていることはない。何かで必ず勝っている。確かに多くで負けているかもしれない、でもこれなら勝てるんだから、まぁ好きにしなさいと思えるメンタルが理想だろう。


なぜそう思えないか。きっと自分に勝てるものは何もないと自信を失っているからだ。だから資格取得に走ったり、手に職をつけたり、何か必死に得ようとする。ただそこに答えはなく、それで自信はつかないだろう。


だからこそペットを飼うのかもしれない。無償の愛を貫ける存在を見つけて、愛し続けたい。愛せる存在さえあれば、少々マウントをとられてもさほど気にしないだろう。


その「ペット」はできるだけ犬や猫など動物でとどめておきたい。芸能人やアスリートをさもペットのごとく捉えていると、手をかまれた時に猛烈な恨みに変わってしまい、自分の身を腐らせる。


御しやすい人間をペットのように見ている人は今すぐ改めるべきだろう。生産性がなく、自分で成長に制限をかける愚行である。

悪気がないからといって何をしても許されるのはおかしい

自分への戒めも含まれるが、悪気がないからといって、自分の言動で誰かを期せずして傷つけたらそれには責任が伴うと思うようにしている。


悪気がなくてもその言動には攻撃性が含まれ、その攻撃性によって誰かを傷つけたのであれば、責任を取るべきだと思う。

自分なんかは口が悪いので、その人を傷つけるつもりはなくても結果的に傷つけてしまった経験を何度も繰り返してきた。

一方で、悪気がないんだから許してねと言わんばかりに、自分の攻撃性を否定せず、むしろ傷ついたことをアピールする人をけん制する人がいる。

もはや「悪気がないという悪意」としか言いようがない。おそらくだが、この人は何度も同じことをやるだろうし、自分みたいに口が悪いから自制しようという気もないのだろう。

そして周囲の人間も「悪気がないという悪意」を許してしまっている。そこに対する教育、叱責などをしなければ、リップサービス、ユーモアなのに勝手に傷ついていい迷惑としか思わないかもしれない。

いい迷惑以前に、もはやだれかを傷つけたことにすら無頓着な人もいる。ここまで来ると犯罪に近いものがある。では、このような人にどんな制裁を与えるべきか、ここが厄介。

関係性が遠いと叱責しても相手が遠ざける。関係性が近いと叱責などは逆効果で、むしろ被害者意識を強く持たれる。自分も自覚があるが、攻撃性が強い人は誰かに傷つけられた経験が多い傾向にある。

自分の中の被害者意識をできるだけなくし、加害者意識をできるだけ持つようにし、誰かのせいに最大限しないようにはしているが、なかなか大変である。

人の性根を叩き直す、改めさせることは不可能に近いと思う。刑務所に入っても結局出戻ってしまう人が多いのは、刑務所が矯正の場ではないからだろう。

性根を叩き直せるとすれば、「この人に見限られたら死ぬしかない」という環境しかないだろう。昔はヤンチャだったけど今は更生したという人は、たいていこのパターン。

ただ、「悪気がないという悪意」だけで、果たしてそこまでの環境を用意できるだろうか。結局のところ、明快な解決策は存在しない。

できることは、まず当該人物とは関わらない、そして当該人物が苦しんでいる時に一切の関心を示さず、誰にも思いを言わず、心の中で爆笑することぐらいだろう。

バカのために自分の手を汚すことは非効率的である。自然とコケてくれる。なんだかんだのらりくらりと世渡りしているようなら、自分自身の見る目のなさと相性の悪さを恥じるべきだろう。

野球はドラフトと育成がすべてである

 96敗はしたが、ヤクルトに希望はたくさんある


これを書いているのは阪神とヤクルトの2連戦の前。そして、これを予約投稿するのは2連戦の後である。ヤクルトが2連勝していれば優勝であるが、どうなっているだろうか。


上にある記事は2017年、ヤクルトが96敗をした時に書いた記事である。横浜が好きなので、90敗を3年連続で経験したファンの1人として書いた。


廣岡をその時に推していたんだなぁと改めて読んでみて驚いている。そんな廣岡は今は巨人で頑張っている。まさか巨人のエースだった田口とトレードされるとは。その田口がヤクルトで本来の輝きを取り戻した。


ヤクルトはヤ戦病院と揶揄されるほどとにかくケガ人が多かった。ケガ人が出てしまうほど悲しいことはなく、戦力の低下につながるものはない。それが今年はあまりヤ戦病院的なことにはなっていない。


育成のことも触れているが、塩見を1番で固定でき、2番には青木、3番には山田、4番には村上、5番にはオスナ、これだけ固められると息の抜きようがない。青木はベテランだが、塩見も山田も村上もまだまだこれからの選手だ。


奥川などやはりドラフトがうまくいき、育成もそれなりにこなせればチームというものは強くなる。横浜が地獄のような暗黒時代だったのはドラフトも育成も下手だったからだ。まぁ今も育成はド下手なのだが。


これを書いている時はまだ阪神にも優勝の可能性がある。その阪神もまたドラフトがなんとか成功し、育成も成功し始めている。いかんせん不安定で、ハマれば強いレベル。短期決戦に持ち込めばもしかすると日本シリーズまで勝ち上がれるポテンシャルがあるかもしれない。


横浜にも少しは触れるが、フロントから勝ちたい気持ちが感じられない。ここまでのことをしたのだから勝て!というフロントの熱量があってから選手の頑張りどうこうの問題になる。


コーチがリーズナブルでスペシャリストがいない。選手がFA権をとれば裏で行使を促しているとしか思えない姿勢を見せる。


その結果、1年目に少し活躍して一軍半みたいになってから数年間それが続く。結局いつまで経っても一軍半みたいな選手しか出てこない。それはスタメンのラインナップを見れば明らかである。牧秀悟が1年目で十二分の活躍を見せたが、それさえなければといったところ。ただ来年どうなるかはわからない。


ドラフトで確保して育成できたチームの勝ち。ヤクルトも阪神オリックスもロッテもそれができた。負けるべくして負けたチームはそれができなかった。特に横浜は育成の大切さを今一度理解すべきである。横浜を日本一にすらできない人間が経団連の副会長をやっている。横浜をリーグ優勝すらさせられないのに日本の経済を語れるのだろうか。

個人の自由を盾にするのは色々と具合が悪い

 「自由には責任が伴う」のを知るべきは子供より大人ではないか


SNSでよくみられるが、個人の自由を前面に押し出して、多少極端な意見を述べること。早い話が、個人の自由な意見に口を出してくれるな、議論をする気はないと防御している。


だったら、チラシの裏に書けばいいじゃないかと思うのだが、指図を受けたくないが自分の意見だけを肯定してほしい気持ちがあるのだろう。その時点で人間としての醜さが出ている。


自分もSNSで指摘を受けることがあるし、どちらかといえばお怒りの意見が多い。その時はなぜこの人は怒ったのかと考える。折り合えるポイントはどこかを探る。意見に怒っているなら折り合うポイントは必ずある。人物が嫌いなら折り合うポイントは一切ない。


自分は必ず意見を持ち、考えもあるので、指摘を受けても自分なりの意見や考えを返す。指摘を受けて面倒だからと意見を取り下げることは、基本的に好ましいことにはならない。かといって、強情に押し通すものでもない。


それを何回か行っていくと折り合える部分が見えてくる。折り合って納得していただければそれでいい。これがあるべき姿だと思う。


それを、個人の自由だ!でシャットアウトすれば単なる強情な人間に過ぎない。人間として無様であり、「私は心に余裕がありません」と言いふらしているようなものだ。


自分の意見をごちゃごちゃ言われたくない人はSNSなんかやらなきゃいい話である。SNSで主張する人は、仕事でやりたいようにできていない人がほとんどのように思う。


自分が表現したいように表現できるのであれば、そもそもSNSで個人の自由を前面に押し出したりしないだろう。


自由には責任が伴うわけで、個人の自由だから好きに意見を言わせろ!というのは、自分で全責任を負うから好き勝手言わせてほしいと宣言しているようなものだ。発言にすべての責任を持っている人でなければ、個人の自由を盾に好き勝手なことを言ってはいけない


じゃあお前はすべての発言に責任を持っているかと問われたら、持っていないと答えるだろう。だから個人の自由を盾にして発信をしているわけではないし、当然指摘は入るだろうと思っている。そして、自分がすべて正しいわけではないので、できるだけ折り合いをつけながら考えを学んでいきたい。


自由というものは楽ではあるがすべて自己責任である。自己責任が嫌なら誰かに束縛されればいいだろう。自分はそれが嫌なのでできる限り自分で物事を決めている。


個人の自由を盾にしてしまうのは、結局自分で自分の首を絞めているに過ぎない。いつかはジリ貧になるし、どこかで白旗を上げて人生に影を落とすことになりかねない。