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政治の話を多くの人が避ける理由その5「そもそも議論を嫌う」

日本人は相手を言い負かすことが議論だと思っているフシがある。

そんなものは議論でもなんでもなく、単にディベートである。

自分の意見が勝てばそれでよく、中身は単にディベートの道具に過ぎない。

ディベートはいわば言葉の格闘技である。そこに答えはないだろう。

政治の話ではなくても、意見が相反する時には日本人は議論を避けようとする。

そして、意見が相反し、言い争いになるとまるでケンカのような形になる。

単に意見が違うだけであり、人格を傷つけあっているわけではない。

にもかかわらず、殴り合いのケンカをしたかのような状況になる。

これでは、議論を嫌うのは当然であり、政治の話は避けようとする。


なぜそのようなことになるのかというのは、己の正しさを過信しているからだろう。

もし、色んな意見があると思っていれば、確かにそういう意見もあると柔軟になる。

しかし、俺が正しい、絶対に間違っていないと言い張る人はそう思わないだろう。

そういうのを頑固というのだが、頑固な人は己を過信しすぎている。

それでいて、大した才能がない。言わせてもらえば、かなり残念である。

だから、頑固な人に遭遇すると、とても可哀想な気持ちになってしまう。

頑固であることに何かしらの経験や裏づけ、根拠があれば別に構わない。

それがないのに頑固でいるのは、自然に淘汰されたがっているとしか思えない。

いわば長い時間をかけた自殺行為をバカな顔してやっているようなものだ。


政治の話は賛否が分かれやすい分野である。

頑固な人は傷つきたくないから、頑なに自分の意見を曲げようとしない。

自分の意見にアイデンティティーを乗っけるからケンカになってしまう。

政治の話はいわば枝葉に過ぎない。

アイデンティティーの傷つけあいをしたくないだけなのだ。

何でもかんでも同一視する環境ははたして健全なのだろうか。